オランダに住んでいる人(30歳・♀)が送る限りなく異世界オランダ日記。
【サムの話をしよう】
ヨーロッパのどこにあるんだっけ、と思われがちなオランダのホステルで住み込みで働いている。
私のホステルは、去年コロナで一部従業員を解雇したが、お客様が戻ってきたので今月から従業員を戻し始めた。
以前の従業員は他に仕事を見つけたのか、戻ってきたのは彼一人だった。
サム。
サムは「はークソじゃんこんなん」などがさつな言動が目立つ陽気な35歳だ。
夜勤のフランス人が31歳なので、フロントメンバーの中では最年長だ。
くりくりにカールされた茶髪は若く見えるので、てっぺんから地肌が覗いているのは見なかったことにしている。
他のオランダ人同様、腹から声が出ていて喋るだけでどこにいるか分かる。
彼はホステルに復帰するや否や、食材でパンパンだったリビングエリアの冷蔵庫を片付け始めた。
「冷蔵庫から明らかに変な匂いがするんだけど」
賞味期限が過ぎていれば容赦なくゴミ袋に入れていったのだ。
リビングの本棚にも所狭しとパン、コーンフレーク、ジャムが置かれていたことは私も気になっていた。
あまりにも宿泊者が多くて、もはや本棚ではなく食材入れになっていたのだ。
だけどオーナーもレセプションも誰もが見て見ぬふりをしてきた。
第一、何かがなくなって問い合わせされるのは自分たちだから手をつけたくなかったのだろう。
私が一か月間気になっていたことを、彼は初日にやってのけた。
その他にも「清掃用のタオルがもうなかったから時間あったら洗っといてね」など、おおよそレセプションの仕事の範囲外にも気配りをしている。
他の従業員は、清掃のことは清掃が気にしていればいいというスタイルだ。
たしかにタオルが不足していたので、仕事前に洗おうと思っていたのだがすっかり失念していた。
お陰で、宿題をやろうと思っていたらお母さんから指摘されてやる気が失せた小学生みたいになってしまったが、仕事を私以外にも気にかけている人がいると思うと、嬉しかった。
そんなサムが、長らく滞在している内気な男子大学生と会話をしていた。
その学生がホテルのスタッフと話しているのをあまり見たことがなかったので私は驚いた。
「新しいの買ってきたんだ!?」
学生は笑いながら答えていた。
「誰かに食べられたからね」
彼の手にはホモソースという、一瞬耳を疑うがオランダ人には大人気のパンに塗るペーストがあった。
捨てた。
絶対あの時に捨てた。
しかしサムは、そんなことおくびにも出さずニコニコしながら会話を続けていた。
私はあの日の記憶をなくすことにした。