オランダに住んでいる人(30歳・♀)が送る限りなく異世界オランダ日記。
【上から見たくても見えない世界】
少し心を痛めたことを話そう。
私が住み込みで働いているホステルの、住み込みメンバー用のキッチンで勉強していた時の話だ。
レセプションのインターン生がスッと入ってきた。
「これここに置いといていい?」
よく見ずに私は「おう」と返事した。
それは私の手のひらサイズの醤油だった。
どういうことかと凝視していると「〜が借りたの」と言って彼女は去っていった。
名前が聞き取れなかった。
私の醤油は、キッチンの棚に置いてあった。
その背の高い棚は白い板で仕切られており、数字が振ってある。
3番が私のスペースだ。
醤油はその奥深くに置いてあった。
おりんの後ろだ。教科書の後ろだ。メモ帳の隣だ。その誰かは、私の私物を全部見たのだろうか。
教科書の字から、漢字を見て私の物だと気付いたのだろうか。
気付いたからこそ、何も言わずに持っていったのだろうか。
よく考えてみた。
今このホステルに、私物を見られて勝手に借りられて許せる人は一人しかいない。
そのルームメイトが借りたわけではなさそうだ。
私は、ここは越えてほしくないラインだと誰かに伝えるためにレセプションに向かった。
醤油を借りたMちゃんは、
丼をオーダしたんだけど、醤油がなくて〜、言った。
ほんの少しだけ。そんなにドバドバかけてないよ?
借りた時に誰もキッチンにいなくてさ、それで誰にも言付け出来なかったのよね。
「メモでも残せば良かったのに。すごいびっくりしたよ。」
あー、うんそうだねー。
彼女は、ありがとうもごめんねも口にしなかった。
あまりの価値観の違いに頭がクラクラしてきた。
すると、22時を過ぎた頃だったので「眠いの?」と聞かれた。
うん、はいはいと曖昧な返事でレセプションを後にした。
湧き上がってきた感情の一つも曝け出さないで、体の内側に押し込めることにした。
私は日本語ですら表せなさそうな沸騰する怒りと、なんでそんなことで湯を沸かせそうなほど怒っているのだという自己嫌悪で急激に気が抜けた。
キッチンに戻ると私は、椅子に頭を乗せた。座る気力すらない。
床にへばりついていると、先程のインターン生がキッチンに戻ってきた。
「XXいる?」
「彼は他の仕事があるから帰ってくるのは0時以降だよ」
「そう。どしたの?」
「疲れただけ」
どうしても荷物に触られたくない、量が減ったとかそういうみみっちい問題ではなく、越えてはいけないラインを越えられた気味の悪さに頭を抱えていた。
これは私が譲歩すべきラインなのだろうか?
いや、このラインは人による。
私はただ、白線がそこに横たわっていることを警告しなければならない。
その白線を超えていいと思える人は、今のところこのホステルに一人しかいないことも自覚した。
白線を横切ってもいい人が多ければ多いほど、居心地は良くなるだろう。
でも居心地の良い人を増やすためだけに、30年生きてやっと見つけた心のバランスを保つための白線を変えるわけにはいかない。
気付くとドミトリーの自分のベッドに戻ってきていた。
だけどベッドに横たわる気力がない。
先週から、昼の暖かさが嘘のように夜は冷え込んでいる。
日本の初冬の気配がする。
裸足の足元から少しずつ凍っていくようだ。
その時、部屋の外からジャラジャラと鍵の音がした。
クスクスと笑い声が聞こえた。
この時のことを、翌朝もシフトだったインターン生とMちゃんがこう語った。
「りんちゃん、あとちょっとでベッドだったのに寝ちゃったの?おかしかった〜。」
「りんちゃん、変わってる。ほんと面白かった。」
そういえば彼女は、私の発音が聞き取れなくてよく笑う。
そういえば彼女は昨夜、私のオランダ語の先生の名前を聞いて笑っていた。
「そんな名前のオランダ人いる?ああ、聞き間違いかぁ。」
彼女には暫く、白線の外側にいてもらうことにした。